魚がいなくなった賀茂川のことにみんな気付いているのだろうか。  世界遺産の名に恥じる惨状。

世に言う「エコロジー」というのは口先ばかりであろうか。賀茂川の流れの中をのぞけば悲しくなる。魚がほとんどいない。生き物がいない。川で遊ぶ子供の姿もない。釣り人もいない。冬にシベリアから来る渡り鳥も減ってしまった。ただよく整備された河川敷は美しく見える。川の中は瀕死の状態。

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確かに五月の新緑は美しい。しかし、ひとたび視線を川の中に向けた時、その姿は虚無的である。生き物がいない川の寂しさは筆舌に尽くしがたい。生き物がいない川は、死にかかった川。そう思うと河岸を散歩する気にもなれない。加茂川の河畔を歩くことを楽しみに引っ越してきたというのに。

 

昔を知るお年寄りたちはちゃんとこのことに気付いている。自然界の危機に。でも若い人たちはどうだろう。初めからこんなものだったと思っているのではないか。子供たちも塾通いとゲームに興じていればこんなこと関係ない話。この有り様にいったいどれだけの人が気づいているのか。「有り様」と言うよりも「惨状」と言う方がふさわしい。

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五月と言えば、鯉の産卵の季節、河岸に草が生い茂っていた頃には、たくさんの鯉が集まり、産卵と放精が行われ、それはそれはすばらしい自然の理科教材であった。かつては、オイカワ、コイ、フナ、カワムツ、モロコ、タナゴ、メダカ、カマツカ、ドンコなどの清流の小魚たちの楽園であった。冬に飛来するカモ類の種類も以前はかなり多かった。図鑑で調べるのが楽しかった。しかし今ではその種類もずいぶん減少してしまった。特に鳥類に関してはこの数年だ。

 

初めからこうだったわけではない。つい10年ほど前までは、この季節になるとたくさんの小魚が群れて泳いでいた。北大路橋の上から時が経つのを忘れていつまでも眺めていた。魚が豊富にいるということは、生態系がちゃんと機能しているということだ。皆にちゃんと見てほしい、この惨状を。流域に上賀茂神社下鴨神社もあるこの河川がこんな有り様では世界遺産の名に恥じる。自然の本来の姿に目を背け見ようともせずに何がエコだ、何が世界遺産だ。

 

近年増えた河川工事のあまりの多さと川の荒廃の関係を調査する機関はないのか。工事そのものが悪いと言っているのではない。橋を造り変えたり、過度に堆積した土砂を撤去したり必要なこともあろう。しかし、十歩譲っても心の痛む光景がある。それはキャタピラを履いた重機がかなりの高速で川底を走り回り、生き物が営巣する中州を、根こそぎ取り去ってしまう河川工事のやり方だ。こんな乱暴なやり方ではあらゆる生物の次の世代が死滅する。生態系が壊れれば、当然川の水は濁る。人の体だって手術ばかりしていれば弱ってしまう。京都市の学術調査機関は機能しているのだろうか。

 

もう賀茂川を愛することをやめてしまおうか、とさえ思う。愛することをやめてしまえば、解放される。悲しく思うことからも、苦しく思うことからも。そうなれば平気な気持ちで賀茂川を散歩することができるようになるだろう。でもその時はもはや、虚無感に包まれた物分かりの良さが、自分の目から本来の光を奪い去っているであろう。

 

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