運転免許証更新のたびに思い出す青年のこと
一昨日、運転免許証の更新のため、三年ぶりに自動車運転免許試験場を訪れた。私の自宅からは中型バイクで南へ40分ほどの道のりである。手続きも講習も円滑に済み、今回は行き帰りの道中も渋滞なく往復することができた。しかし前回(三年前)は帰途ちょっとしたトラブルがあった。
三年前も同じバイクで行ったのだが、乗り換えてまだ1ヶ月しか経っておらず、ガソリンの減り具合をよく把握していなかった。自動車のような燃料計は付いていないので、予備タンクに切り替えたらなるべく早く給油するのが鉄則である。そのタイミングを見誤ったため、帰宅途中にガス欠を起こし立ち往生してしまったのだ。
困り果てて辺りを見回すと郵便局がある。中に入ってガソリンスタンドの場所を尋ねることにする。こういう時に郵便局というのは頼もしい。何となく親切な職員さんが丁寧に教えてくれるような気がするからだ。人が人を信じていた昔の日本の名残りが郵便局にあるような気がする。
カウンター越しに職員の女の方に最寄りのガソリンスタンドの所在を尋ねたところ、気の毒そうに「この近くにはありませんね」との返答。いよいよ困ったな、と思っていた矢先、入口のATMで機械を操作していた二十歳過ぎのサンダル履きの青年が我々のやり取りを聞きつけて近寄って来た。縦にも横にもとにかく大きな、一見してちょっと威圧感さえある巨体だ。一瞬身構えたが、この青年は言った。
「うちがこの近くなんですけど、もし良かったらボクの原チャリを持ってきますから、ポンプでガソリンを移し替えて下さい。」
原チャリというのは、言うまでも無く50ccスクーターのことだ。突然現れた青年のあまりの親切に戸惑ったが、渡りに船、とばかりご厚意に甘えることにした。
「では待ってて下さい」と言って立ち去った青年を待つこと約十分、彼はぼろぼろの原チャリに乗って再び現れた。もちろん、ガソリンを移し替えるためのポンプを携えて。
私は遠慮勝ちに「1リットルもあれば家に帰れますから。」と言ったが数リットルは入れてくれたと思う。とにかく親切なのだ。
タンクに恵みのガソリンを入れてもらった私は、どのようなお礼をすべきか迷った。今なら千円札でも渡してこれでお昼でも食べて下さい、と言うかもしれない。でもその時は中途半端なお金を渡すのはかえって青年の気持ちを損なうような気がしたので、彼の言うまま「もらった数リットル分のガソリン代」に見合った金額だけを手渡したのだった。
まさに文字通り「有り難い」(遭遇することのめったにない)厚意に感激し、すぐには立ち去りがたい気持ちの私は、そのまましばらくの間、親切さの余韻を感じながら青年と立ち話をしていた。
「いいですね、こんなバイクボクには買えませんわ。いつか欲しいな。」
青年は高校を卒業した後、地元からそれほど遠くない和菓子店に就職し、今もそこで働いていると言う。
青年の原チャリがあまりにぼろぼろで、バックミラーなんかは役に立たないほど壊れていたので、思わずそのことに触れると青年は、
「同じアパートの住人に壊されたんです。ボクがバイクの停め方で文句を言ったら、腹いせにやられたんです。」と笑いながらさらっと言ってのけた。たくましいというか、慣れているというか、感心してしまった。
そんな話をして再度礼を言ってあっさり別れてしまったことを今でも後悔している。せめて彼の勤め先のお店の名前だけでも聞いておけばよかった。そうすれば、後日改めてお礼をすることだってできたはずだ。お店を介して「あの時お宅様で働いておられる青年にこんなに親切にしてもらったのです」と言えば、彼の社会的信用も上がるであろう。そうすることが親切を受けた私が「おとな」として若い人に対してできる最も適切な恩返しではなかったろうか。しかし、まったく、おとなげないことに、そういうことに後になって気づく私であった。
「掃き溜めに鶴」とはこの青年のためにある言葉かもしれない。良い人生を送ってもらいたい。