鍼術の大恩人 杉山和一総検校がお祀りされている神社へ参詣◇墨田区の江島杉山神社(えじますぎやまじんじゃ)【前編】
鍼術を生業とする者として一度は参詣を、と以前より思っていましたが、この六月に三年ぶりに上京する機会を得たので遂に行ってまいりました。
JR浅草橋の駅から両国橋を渡り、さらに徒歩十分、江戸の情緒が残る街並みです。江戸落語に親しんだ関西人の自分としては何となく嬉しい散策です。
本殿に隣接した二階建ての二階部分には、鍼灸に関する資料室と、付属施術所(杉山鍼按治療所)があります。
杉山検校の遺徳を讃える石碑が建てられています。点字の銅板表記もあります。
盲人の方が手で触れて理解するために立体的に表す必要があったのでしょう。
本郷正豊によって享保年間(18世紀初め)に書かれた名著『鍼灸重宝記』。八木下翁はこれ一冊を宝として臨床の座右に置き日々の治療に当たりました。晩年には八木下翁オリジナルの『鍼灸重宝記』が翁の頭脳と手掌の中に出来上がっていたと言います。それは誰にも真似の出来ない学術一体の結晶でした。
翁はこの聖なる書物を自分の手垢で汚さない様に竹べらを使って読んでいた、ということは本で読んで知っていましたが、その実物がまさかここに保管されていたとは!本日最大の驚きでした。
「あれもこれものバイキング的つまみ食い」では結局何もものにならないとあらためて思います。「自分にはこれしかない」と覚悟を決めることで初めて、その深い所への道が開かれてゆくこともあるのです。
筆頭の湯淺勝之助は八木下翁のことでしょう。その他、有名な澤田健に学んだ代田文誌、城一格、そして雑誌「医道の日本」を創設した戸部宗七朗など、そうそうたる名前が見られます。
「物を聴く夕(ゆうべ)」なんと素敵なネーミングでしょうか。黒メガネの人は目のお悪い方と思われます。女性鍼灸家の方も五名ほどおられます。仙人みたいな先生もおられます。
明治時代になり、「富国強兵」のスローガンのもと日本の医療が西洋医学一色になり、鍼灸家・漢方家の多くはさぞ肩身の狭い思いもされたことでしょう。しかしそうした逆境の中、研鑽を積んで鍼灸の真価を現代に蘇らせよう!という熱意を持った先生方が多数おられたのです。そのお陰で今の日本独自の鍼灸があるのです。それは中国のそれ(中医学の針灸)とはまた一味違う日本流の鍼灸なのです。
私が資料室を見学している間にも、数名のご婦人の患者さんが「あゝ楽になりました!」と言って帰って行かれる声を聞きました。これこそが鍼灸術の実力なのです。副作用はありません。
さすがに現代においてこのような巨大な鍼を使っている人はほとんどいないと思います。古代は外科手術の一部も兼ねていたと考えられます。
このご親筆の掛け軸は、上野の国立博物館にあってもおかしくないほど貴重な物です。綱吉公はあまり身体が丈夫でなく、頭痛持ちであったとも。それゆえに鍼灸の施術を好まれたと聞いています。
鍼灸の価値をよく知った為政者であればこそ、盲人のための福祉事業の一環として鍼灸を奨励され、神社もお建てになったのでしょう。現代の日本ではどうでしょうか。
欧米やアジアの国々のも中には、国家が鍼灸をバックアップしている例が少なくありません。その点において日本は最後進国です。
日本という国は東の果て、「日の出づる処」ではありますが、それは文化の果てということでもあります。近代になるまで文化的なものはすべて西からやって来ました。
漢の時代に中国で書かれ、唐の時代になって日本に伝来した『黄帝内経』(こうていだいけい)という医書を江戸期の日本人もとても大切にしていたことが伺い知れます。
日本人はもともと文化的には「末っ子」意識があるので、一番になりたいなどという野望は持っていません。それよりも、外国から入ってくる人や文化を尊敬し、取り入れ、自分たちに合った形に作り変えてしまうことに関心があり、またその能力に長けています。それだけに尊敬に値しない大国の姿を見てがっかりもするのです。
次回は予約して施術して頂こうかしら。
人のお世話になることも勉強です。