今から9年前、東日本大震災から5年の歳月が経った2016年3月某日、私は宮城県東松島市の野蒜海岸という太平洋に面した浜にいました。鍼灸経絡治療の仙台学術大会に出席した翌日、仙台で小型バイクをレンタルしてのことでした。
そこはもとは松林の海岸が広がっていた美しい田舎町でしたが、震災の大津波が何もかも流し去った後、いまだ復興の途上にありました。松林は跡形もなく、広大な工事現場と化したそこは、まっ平らに整復されて、大型ダンプが土ぼこりを上げて走り回っていました。その路傍で持参のお線香に火をつけて199□年の夏のある日のことを思い出し、他に為すこともなく、ただ祈っていました。
199□年と言えば、今を去ること30数年前、私がまだ東京の大学生だった頃のことです。私は一人でこの海岸へはるばるやって来たのでした。翌日には秋田で友人と落ち合う約束だったのです。朝、東京のアパートを出て、東北自動車道をオートバイでひたすら北上し、日の暮れかかった頃にようやくたどり着きました。今夜の宿は、ツーリングマップに書いてある「県松島野外活動センター」という松林のキャンプ場、そこで街道沿いの店で買った生きたホタテとさざえを焼いて一杯やるのを楽しみにしていたのです。
無謀な計画の末、私が到着した時にはほぼ日は落ちていました。暗闇の中、遠くに波の音が聞こえます。疲れ切った私は探しに探しましたが、そのキャンプ場はどうしても見つかりません。これは様子がおかしいと慌てました。
見ると一軒のきれいな民宿らしき建物が見えます。エントランスの扉を開けて「ごめんくださーい」と声を掛けるとほどなく一人の中年の女性が出て来られました。「あのう、このあたりにキャンプ場があると地図に書いてあるので来たんですが…」と尋ねますと、その方は気の毒そうな面持ちで「あー、あそこはちょっと前に無くなったんよ」とおっしゃるではありませんか。すでに無いキャンプ場をあてにして来た自分のあほさに呆れるとともに、どうやって一夜を明かそうか、と一瞬うろたえていると、「あいにく夏休みで満室なんだけど、隣の空き地ならテント張っていいよ」と言って下さったのです。そればかりか、「水道はうちのを使って、お風呂も入りに来るといいよ」と。地獄に仏とはこのことか、と本当にありがたい気持ちでお言葉に甘えてお隣の空き地に一人用の犬小屋のようなテントを張り、ちゃっかりとお風呂も使わせてもらって汗を流しました。上機嫌となった私は、上野で買って来たばかりの小さなガスコンロに網を乗せてホタテとさざえを焼いて食べたのでした。缶ビールとともに味わうそれは極上の味がしました。翌朝ご挨拶に伺うと、「ゆうべはいい匂いさせてたねー」と満面の笑みをたたえておっしゃいました。親切にして頂いたお礼を言ってさらに北へと進路を取りました。
若いということは恩知らずなもので、その後私はお礼状を出したのかというと、そんなことはしていません。修行が足らんということはこういうことなのです。恩を受けた人との関係性が今一つ身に染みて分かっていないのが未熟者の証しなのです。良く言えば、若いということは、先を急ぐということなのかもしれません。
9年前のこの時、野蒜へ出掛ける直前に少ない情報をもとにネットで調べたところ、地元の方と思しき親切な方が、「松波荘は野蒜の洲崎ですね。海が近いこともあり壊滅状態です」と教えて下さいました。また「気にして下さる方がいて嬉しいです」とも。実際に足を運んでみて想像以上の光景に立ちすくむばかりでした。私にはお線香を上げることしかできませんでした。その方には、「松波荘の息子さんと思われる方が湾を隔てた松島町におられる」という情報も頂きました。
今年の3月11日、野蒜での温かい思い出とともに、そのご子息に勇気を出して連絡し、お母さまに親切にして頂いたお礼の気持ちをお伝えしたい、という気持ちも芽生えました。被災していない私のような者は被災された方にどこか申し訳ないという気持ちが強く、決して軽々しい気持ちでコンタクトできない気持ちがあるのです。