円空仏、癒しにはわけがある

日本人ならだれでも一度は見たことがある荒削りの仏像がある。江戸時代前期の僧侶、円空の手になる一群の木彫りの仏様である。昔、小学生用の彫刻刀の箱にこの円空仏の写真が使われていたので覚えている人も多いだろう。

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円空仏の多くは優しい笑みをたたえ、見るものの心を和ませてくれる。今もなお「円空さん」と親しみをもって呼ばれる所以である。三月上旬の暖かな日曜日、その微笑みに出遭いたくて新幹線に乗り、岐阜県羽島市まで出かけて行った。

 

濃尾平野の真ん中、木曽川長良川の三角州の田園地帯にそのお寺「長間薬師寺」はあった。しんと静まり返った本堂に数体の円空仏が安置されており、手の届く距離で見せて頂くことができた。優しい女性住職さんの丁寧な説明が場を明るく盛り上げてくれた。

 

中央の薬師如来のお顔が優しいのは言うに及ばず、脇に立つ頭髪を逆立てた荒ぶる神々までもがその表情に笑みをたたえている。いつまでも見ていたくなるほどの穏やかな仏の表情は、その前夜の飲み会で不快なことを耳にしてしまった私の心を慰め清めてくれるのに十分な力を持っていた。来て良かったと思った。

 

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円空上人は、寛永九年(一六三二年)、美濃の国に生まれ、七歳の時長良川の洪水で母を亡くした。二十三歳で出家し、三十二歳で得度を受け、諸国を行脚しながら仏を彫り続けた。そして元禄八年(一六九五年)の六十四歳の時、弟子の円長に結脈を与え(法が師から弟子へと相続されること)、二日後の七月十五日、盂蘭盆の時、長良川畔において「入定」(にゅうじょう)した、という。

 

「入定」とは、つまり、自ら死期を悟って断食をし、穴に入り、即身仏になることである。それが「衆生救済を目的として永遠の瞑想に入る」ことだった。現代人にはまねのできない壮絶な修行がまさに人生の最期に行われたのだ。

 

円空さんは普通の人ではない!」

 

このことを知った時、親しみの感情だけでは済まされない、上人に対する畏怖が芽生えた。手の届かない存在への恐れと敬いの気持ちである。

 

七歳の時に洪水に母親を奪われるという悲劇から始まり、生涯を賭けて何万体と言われる仏像を彫っては人に与え、最期はこのような死に方を選んだ一人の人間の人生。そこには優しい微笑みの裏に秘められた孤独な魂が浮かび上がる。円空さんの微笑みが、現代人にとっても大いなる安らぎになるわけがわかったような気がした。

 

(本堂内の撮影はお寺の許可を得ています。また、マルイチ彫刻刀の画像はAmazonさんから拝借しました。)