つげ義春 「蒸発」に描かれた漂泊の俳人 井月(せいげつ)
俳句の本を読んでいて、永らく忘れていた名前に出会った。「井月」である。「せいげつ」と読む。江戸末期から明治前期にかけて生きた文人である。多くの俳句を残したが、没後永きに渡って忘れられていた。平成になる少し前、その半生をつげ義春が数少ない資料をもとに漫画に描いている。それを学生時代に読んでいた。
つげ義春(1937~)は、その独特な世界観に魅かれる多くのファンを持つ漫画家である。ただ、時期によって作風がまるで違う。特に有名なのは、三十歳前後に描かれた一連の作品群だが、長いブランクの後、五十歳を目前に全く作風を異にして再び読者の前に現れた。それが『無能の人』であった。(後に竹中直人氏が同名の映画作品に仕上げている。佐野史郎氏もつげ作品を映画化している。どちらもお勧めである。)
そこに描かれた世界は、若い頃のほの暗いロマンティシズムとはほど遠く、驚くほど枯れていた。池袋の書店で初めて手に取った私は、久しぶりの新刊を大いに喜び、中も見ないで買って帰ったが、帰宅して読んでみて大いに失望した。二十代の若者の目には、到底ついていけないみすぼらしい世界に映った。その中の一編に井月を描いた「蒸発」が含まれていた。
落栗の座を定めるや窪溜り
歴代の名句を集めた本を読んでいてこの句を見つけたことが、井月を思い出すきっかけになった。その生涯にも関心が湧き、すでに散逸していたつげの漫画も今回あらためて買い求めた。
再読してみて思ったのは「これは若い人にはきついわ」ということ。やはり年齢を重ねないと近付けない世界というのはあるのだ。つげさんがアラフィフで描いたものを今自分がその年齢に達して後を追っている。
井月の作品は岩波文庫で読むことができる。素朴な味わいのある句が並んでいる。二十年俳句をやっている母もこの名は知らなかったという。今回は先輩に教えてあげる形となった。